「 … 近年の調査結果は、プトゥン・マヤ人の動きや長距離交易ルートの再編成は古典期文明崩壊の原因ではなく、崩壊した結果としておこったことを示しているといえる。
セイバルの例を見ると、プトゥンの動きが示唆されてはいるものの、セイバルが、メキシコ湾岸地方からウスマシンタ川、パシオン川沿いにやって来たプトゥン集団によって征服されたという仮説は支持されていない。 (中略) プトゥンの侵入と結び付けて考えられていた精製灰色土器や精製オレンジ色土器の胎土の理化学分析により、それらの土器のほとんどの産地は、プトゥンの本拠地ではなく、比較的近いウスマシンタ、パシオン川流域であることも示唆された。」
(中村誠一『マヤ文明はなぜ滅んだか?』ニュートンプレス,1999)
「 … 湾岸地域南部に住み、メキシコの文化の影響を強く受けたチョンタル・マヤが移動し、チチェンイツァー、セイバル、グアテマラ高地などに侵入し、これらの地に新しい王朝を打ち立てたとする説が根強くある。しかし、この説の考古学的な根拠は弱く、その検証のためには、チョンタル・マヤの起源の地とされる南部湾岸地帯の更なる考古学的調査を待たねばならない。」
(猪俣健『メソアメリカの考古学』同成社,1997)
「 … 長い間、この(セイバルの)復興は西からの侵入者(メキシコ系の集団)によって達成されたとされてきたが、近年の碑文研究の結果は、それとは違ったシナリオを描いている。
リンダ・シーリーが最初に指摘したとおり、石碑11の碑文はアフ・ボロン・ハーブタルという人物が “セイバルへ到着” したことを記録している。このアフ・ボロン・ハーブタルによるセイバル王朝の再創始を後見したのは、チャン・エク・ホペットという人物である。チャン・エク・ホペットの称号はアフ・カンウィツナルであり、これは彼がセイバルの東の都市ウカナルの出身だったことを示している
」
(サイモン・マーティン/ニコライ・グルーベ著 中村誠一監修
『古代マヤ王歴代誌』創元社,2002)