「...10世紀にチチェンイッツァは中央高原からやって来たトルテカ族に乗っ取られた。その前と後で旧チチェンと新チチェンに分かれ、新チチェンはトルテカ族が自分たちの故郷トゥーラを模して作った...」
と、一般的には言われている。確かに、戦士の神殿はトルテカ族の本拠地トゥーラの神殿とソックリだし、血生臭い人身供儀も頻繁に行われた。
だけど、実際にトルテカ族がチチェンイッツァに侵入して征服や支配をおこなったり、ウシュマルからマヤ人を追い出して都市を放棄させたりした考古学的証拠はまったく何も無い。もともとマヤ人も好戦的で生贄を捧げるのが大好きな部族だった。通説とは正反対に、マヤの影響でトルテカ文化が発展した可能性だって十分考えられる。
「これまでのマヤ研究は大半が見てきたようなウソと考古学者の好みで選別された資料の上に成り立って来た」 なんて言っている研究者もいるくらいだから。
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