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コパン遺跡 “暗黒神イーク”または“松明持ち”
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アクロポリス西広場北側の神殿11の下部、“閲兵台”と呼ばれる建造物に飾り付けられているグロテスクな風貌をした石像。
口と腰に蛇を絡ませたこの像は、たいまつ持ち、嵐の神、暗黒神イークなど様々な説がある。また、左手にかかげている物体についても、灯明、羽毛で飾られた音響器の一種、首切り用の斧など、いろいろと言われている。結局はいまだに正体不明。グロテスクだが写実的でもあり、妙に存在感がある石像。
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なお、この石像はカンボジアのアンコール遺跡群のバンテアイ・スレイ遺跡(10世紀後半)にある「守護神ナラシンハ」をかたどった石像(↓下図)と瓜二つ、と言ってよいくらい非常によく似ている…、と思う。
コパンとバンテアイ・スレイ、どちらも膝を折り曲げ、片手を腰か腹部に当て、もう片方の手にはたいまつのような物を持ち、人間の体に獅子または猿に似たグロテスクな容貌。 ただし、ナラシンハは口に蛇をくわえていない。
また、ジャワ島に残るヒンドゥー教のスクー寺院は全体のシルエットがマヤ遺跡の神殿を連想させるものだという。偶然の一致なのかどうか…。
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コパン遺跡 アルターHとアルターI
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アルター H
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アルター I
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いずれもアクロポリス西広場の南縁にひっそりと置いてある祭壇。一対になっているようにも見える。
平坦なプラットフォーム状の形は一体何のためなのか、どのように使われたのか、ステラとセットだったのか、単純な形だけに色々と想像させてくれる。
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コパン遺跡 アルターQ
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神殿16前 西広場のもの (レプリカ)
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石彫博物館のもの (これもレプリカ)
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西暦763年の日付が刻まれた祭壇アルターQは、右の16代王ヤシュ・パサフが左の初代王ヤシュ・クック・モから王権の象徴を受け取るのを歴代の王たちが祝福している場面だと解釈されている。
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面白いのは、左のヤシュ・クック・モがメキシコ中央高原の巨大都市テオティワカンの雨神トラロックに似た仮面を着け、右手に持っている盾もテオティワカン様式を連想させる長方形であること。
また、1990年代にスタートした本格的なトンネル調査により神殿16の地下で発見された初代王のものと見られる王墓や貴婦人の墓には、テオティワカン様式の多量の土器や装飾品が副葬品として埋納されていた。これらのことから、「コパンの初代王ヤシュ・クック・モはテオティワカン人だった」という説もあながち極論とばかりは言い切れない。もちろん、「それは単なるテオティワカン風が流行しただけだ」とする見方も根強く、初代王はテオティワカンではなくてティカル出身だったと考える研究者も多いという。しかし、どれも推測の域を出ない。
かなり昔は、この祭壇はコパンで科学アカデミーが開催されたのを記念して作られたもので四面に彫られた16人の人物はマヤ各地から集まった神官たちであると言われていた。しかしマヤ文字の解読が飛躍的に進歩した現在では、これらの人物は神官ではなくコパンの王たちだということが判明している。
コパンはマヤの科学センターと言われているが、太陰暦の精度においてはパレンケの神官たちが行った計算方法のほうがコパン方式より正確なものだった。確かに古代マヤ文化圏の中で8世紀初頭まではコパンが天文学をはじめとする科学的分野をリードし、他の都市もコパン方式の計算法を使っていたらしい。しかし、8世紀半ば以降は大半の都市がコパン方式を捨てて精度の高いパレンケ方式に切り替えて行ったと見る説が有力だという。
コパンの衰退はキリグア戦に敗れただけでなく、学術水準の低下に伴い科学の中心都市としての名声や信頼を喪失したことも何か影響しているのかも知れない。
なお、石像の彫り方などでも素材となる岩石に違いはあるものの、深彫りで三次元的表現を得意とするコパン芸術に対し、パレンケでは浅彫りで版画のように流麗な刻線が多用されていて実に対照的な違いを見せる。7〜8世紀頃のマヤ文化圏では、東の端に位置するコパンと西の端に位置するパレンケがあらゆる面で互いを意識し競い合っていたのではないか、そしてコパンはパレンケに文化的な敗北を喫したのではないか、とも想像出来る。
本来、アルターQはアクロポリスの西広場にあったが、現在その場所にはレプリカが置かれて本物はコパン博物館に保管されている。
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