Kaminal Juyu
― カミナルフユ遺跡 ―
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午後、アンティグアからグアテマラシティへ向かう途中、カミナルフユ遺跡に立ち寄る。カミナルフユはグアテマラシティの西のはずれにあり、神殿や住居が“粘土”で造られていたために「土のマヤ」と呼ばれる。紀元前10世紀頃からここに人々の定住が始まり、紀元前5世紀には粘土を固めた神殿が築かれ始めたようだ。
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一般に、カミナルフユの歴史は大きく二つの時期に分けられるという。
第一期はミラフローレス期と名付けられた紀元前3世紀頃から紀元後2世紀頃に先古典期マヤにおける中心都市国家の一つとして繁栄した時期。
第二期はエスペランサ期と呼ばれ、一度衰退したカミナルフユが5世紀頃にメキシコのテオティワカンの強い影響を受けて再び隆盛を迎えた時期。
ミラフローレス期の文化的役割や性格について、かつてはカミナルフユはオルメカ文明からマヤ文明への中継点的な役割を果たしたイサパ文化に含まれるというのが通説となっていた。しかし現在ではエル・ミラド−ルやナクベの大神殿跡など、イサパやカミナルフユより古い時期に既にマヤ様式が高度に発展していたことを示す遺跡が発掘・調査されているため、カミナルフユがマヤの母胎文化の一つだとする見方は過去のものとなったようだ。また、そもそも年代的にオルメカ文明はマヤ文明に先行するものなのかどうかについても多くの疑問が示されている。
さらに、第二期のエスペランサ期もミラフローレス期以上に研究者の間でその見方が大きく分かれる。正確なテオティワカン滅亡時期の確定とも関連するが、テオティワカンの影響の強さの度合いはどの程度だったのか、政治的に完全に征服されたのか、それとも独立を保ちながらも強い影響を受けたに過ぎないのか、また、テオティワカン介入の端緒とされる先古典期の崩壊(※古典期の崩壊ではない)に伴う衰退期自体、実際にカミナルフユに存在したのかどうか、などについて見解が分かれているという。
本来は広大な面積を持つカミナルフユの遺跡はグアテマラ市街地の拡大に伴って、その殆どの遺跡・遺構が住宅地の下に埋まったり破壊されたりしてしまった。そのために全容を解明するのは現在ではもはや不可能とさえ言われている。
[ 2004.05.05 ペテン地方で先古典期時代の遺跡発掘 ]
ヴァンタービルト大学と米国地理学協会は、紀元前500年頃と思われる比較的規模の大きい遺跡をグアテマラのペテン地方Civalで発掘したと発表。
Preclassic Maya City Discovered in Guatemala
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カミナルフユ遺跡入口
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カミナルフユは一見しただけでは遺跡と判らない。草の生えた広い原っぱにところどころ盛り上がったマウンドが点在している光景は手入れの悪いゴルフ場か草野球場を思わせる。
他に観光客の姿もなく、土産物屋もない。赤錆びの浮いた看板と掘立て小屋のような売店があるだけで、その売店すら閉まっている。いかに訪れる人が少ないかを物語っているようだ。
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「土のマヤ」 カミナルフユ遺跡
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エスペランサ期にカミナルフユがテオティワカンの支配下にあった証拠とされるのが、このアクロポリスに見られるタルー・タブレーロ建築様式。タルー・タブレーロ様式とは傾斜した壁面に長方形のパネルをはめ込んだ建築様式。
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石材よりも脆い土砂で神殿を建てねばならなかった理由についてマイケル.コウは
「この付近では加工し易い石材が手に入らないので、その代わりにこれらの基壇はただの粘土や、バスケットに詰めた土砂、ゴミくずなどで築かれていた」 (『マヤ』学生社,1975)
と、いとも簡単に述べている。しかし、ゴミくずまで使用しなければ大建造物を作り得ない不便極まりないこの場所に何故カミナルフユやテオティワカンの人々がこだわったのかについては明確な理由付けが無い。
黒曜石産地に遠くないというメリットがあり、マヤ地域に飛び地とも言える植民地を確保したかったとしても、神殿建築用石材を得るのが極めて困難な土地など、わざわざテオティワカンが欲しがるものかどうか疑問に思える。
また、最初の繁栄を誇った先古典期でも、マヤ低地にある同時期の宗教センターは既に巨大な石造神殿群を作りあげている。都市や宗教センターとして発展するための立地条件に恵まれないカミナルフユはもっと早い時期に見棄てられ完全に廃墟となっていてもおかしくはない。
石材の代わりに土砂を利用してまでこの場所にこだわった特別に重大な理由はまだ解明されていないように思われる。
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何と、土で出来たマヤアーチ式の排水路の天井部分。
石ならともかく、土でもこの形にする必要があったのか?
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