セイバル遺跡の発掘・調査で議論が分かれてきたのは、出土した土器の変遷から、この地方は9世紀頃にオレンジ色の特徴ある土器を持つメキシコ湾岸出身の謎の集団に侵略され支配されたのではないか、ということ。同じ特徴を持つ土器がウスマシンタ川流域にある他の古典期マヤの諸遺跡からも見つかっている。
この謎の集団についてこれまで、“マヤ系言語を話すが古典期のマヤ文化圏からは取り残されていたマヤ系部族”、もしくは“メキシコ湾岸低地出身の非古典期マヤ人”ではないかという説が有力となっていた。この集団は“チョンタル・マヤ人”もしくは“プトゥン人”などと呼ばれている。解説書の中にはこの部族をトルテカ族と誤って混同しているものも見受けられるが、れっきとしたマヤ系の一集団だったようだ。この謎の集団こそが後古典期ユカタン半島のチチェンイッツァなどで発達した、いわゆるトルテカ=マヤ様式文化の重要な担い手だった、とする見方もある。
しかし、近年の碑文研究によれば、この謎の集団は西のメキシコ湾岸辺りからやって来た氏素性の判らない集団などではなく、セイバルの東に位置する都市ウカナルと関係を持つ人物を王として頂く一派だったのではないか、という指摘がなされているようだ。マヤ文字解読の更なる進展によって、今後はこの説が有力となってゆくのかも知れない。
今のところ、詳しくは何も判っていないというのが実情かも。
ただ、プトゥンかウカナルか、いずれにせよ、この謎の集団による影響も長くは続かなかったようで、10世紀半ばにはマヤ古典期の崩壊に歩調を合わせるかのようにセイバルも活動を停止し放棄されてしまう。
この遺跡は1890年に天然ゴムの木を伐採に来た労働者の情報によって知られるようになり、1912年発掘がスタート。本格的な発掘や調査は1965年以来ハーバード大学の考古学チームらによって行われている。