コパン遺跡 神聖文字の階段
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コパンを有名にしているのが神殿26にある神聖文字の階段。かなり以前から階段にはテント屋根がつけられ、雨や風化から保護されている。現在では修復して72段からなるこの石段は、19世紀終わりにハーバード大学ピーポディ博物館が発掘した当初は下の10段と上の5段だけが辛うじて残っていたに過ぎなかった。
およそ2500字を超えるマヤ文字の階段は、まるで空白を恐れるかのようにびっしりと文字で埋め尽くされている。完成したのはコパンがキリグアとの戦いに負けた後の西暦775年(一説には756年)とされ、内容はコパン王朝の“輝かしい”歴史が刻まれている。臣下とも言うべき小都市キリグアに負けて意気消沈した人心を鼓舞するために作られたのか。
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発掘ミーティング
訪れた時、ここで発掘にあたっている研究者たちのミーティングが神聖階段の下で行われていた。Tシャツの文字などからUCLAの関係者が多かったようだ。日本人研究者も参加されていたので、ミーティングを中座された折に話しかけたが非常に急いで立ち去られたため、簡単な挨拶を交わすのが精一杯でお名前さえ伺えなかった。ひょっとして日本では高名な先生だったかも。うーん、残念。
『考古学通信』2001年6月号より
・コパン遺跡(2001年5月26日)−ホンジュラス−
中米ホンジュラス西部のマヤ文明のコパン遺跡の陵墓から出土した人骨が、426年〜763年の間、コパンを支配したマヤ王朝の16人の王の1人であることを、ホンジュラス観光省が確認した。同陵墓はハイウェー建設に伴う調査で発見され、多くの装飾品などとともに人骨が出土していた。
発見した考古学者 Seiichi Nakamura によると、コパン王朝の第6番目から第10番目の間の王のものかもしれないという。 (関連情報:時事通信・ロイター5/26)
...ということは、日時的に見て
あの日本人研究者の方は中村誠一先生だったのでしょうか?
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コパン遺跡 神殿26 北側入口
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神殿26の北側にある入口。ぽっかりと暗い穴が口を開けている。ここから神聖階段の真下まで行けるのか?
すぐ側まで近づいてみると鍵が外れているのが判った。入って行きたい衝動に駆られたけど、ぐっと我慢。
神聖文字の階段を覆うテントが右の方に見える。
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コパン遺跡 ステラ M
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神聖文字の階段のふもとにあるステラMと祭壇。ミーティングが長引いていたので側まで近寄れなかった。
第15代目の「煙貝王」(カック・イピヤフ・チャン・カウィール)が建立し、彫られているのも彼自身の肖像だという。
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