Tikal
― ティカル遺跡(1)―
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グアテマラ北部に位置するペテン低地の密林地帯。その鬱蒼と生い茂る密林の真っ只中にティカルがある。現在のところ修復の手が入っているものとしてはマヤ文明最大の都市遺跡。
海抜250メートルの台地上、およそ60平方キロにわたって大小の遺跡群が点在し、その中心部16平方キロには樹海を突き抜ける摩天楼のような神殿群や1万人の人口を擁したと思われる住居跡が残る。周辺部も入れてティカル全体では古典期の後期に約5万人程度の人口があったと推定されている。
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ここに定住が始まったのは出土した土器の年代によって紀元前8世紀頃とみられ、先古典期から繁栄をはじめたティカルは西暦3〜6世紀半ばの古典期前期に大宗教センターとしての地位を確立、6〜10世紀にかけての古典期後期には壮大な神殿群を持つマヤ最大の都市となったらしい。なお、ティカルでステラ等から確認できる日付は西暦292年から869年までとなっている。
このティカル遺跡で1960年代の発掘調査によって発見された土塁と環壕の跡は、それまでの古いマヤ文明観に大幅な変更を迫るものとなった。
戦争を行っていた証拠となる土塁と環壕の存在は、旧来の「平和主義者で戦争を行わなかったマヤ人」という思い込みを完全に否定してしまう大発見だった。
この防御設備は直線距離で24キロほどしか離れていない隣接するワシャクトゥン遺跡との間に築かれ、残っている部分だけで全長9キロメートルにもわたってのびている。
現在では古典期に先立つ先古典期の多くの遺跡が既に戦争から神殿や都市を守るための土塁と環壕を備えていたことが明らかになっているため、大規模な防御設備を設けねばならないほど激しい戦争がマヤの歴史上一貫して繰り返されていたと想像出来る。
また、今もなお一部の解説書に残っている“生贄を好まないマヤ人たちが生贄が大好きで好戦的なトルテカ系の部族に征服された”というユカタン半島北部の後古典期に対する古臭い歴史イメージも、果たしてどちらが本当に好戦的な部族だったのか判らない。マヤもトルテカに負けないくらい、あるいはそれ以上に好戦的で残酷な一面を持っていた、と言えるのだろう。
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ティカル遺跡 コンプレックスQ(双子ピラミッド複合)
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貯水池の横を通り、最初に遭遇したのはコンプレックスQ。
コンプレックスとは、広場の周りに2個の小ピラミッド・石塀で囲まれたステラ・入口が9ヶ所ある細長い建物、これら4つの建造物が一組になっている遺構で双子ピラミッド複合と呼ぶらしい。
石塀で厳重に守られたステラには、とても重要な石碑だぞ、とでも言いたそうな雰囲気が漂っている。
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コンプレックスQのステラには
西暦771年の日付がある。
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コンプレックスQの祭壇 拡大
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コンプレックスが何のために造られ、どのように使用されていたのか明確には不明。暦周期カトゥンの終了を祝うために造られたとする説もあるが、まだ推測でしかない。ティカルには往時9組のコンプレックスがあったと言われている。
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ティカル遺跡 コンプレックスR
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コンプレックスQの近くにはコンプレックスRもある。
しかし、ここはほとんど修復されていない。ステラを囲んでいた石塀も壊れたまま。
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